コンクールの歴史
1月下旬から2月に開かれたローザンヌ国際バレエコンクールで日本人の受賞者が出たことは記憶に新しいと思います。世界的に有名なローザンヌ国際バレエコンクールの歴史についてお話しします。
- 創設者について(誰がローザンヌ国際バレエコンクールを作った?)
- 創設者の理念
- 目的(何のために?)
- 歴史(どう広まった?)
創設者について
スイスの実業家フィリップ・ブランシュワイグ氏がローザンヌ国際バレエコンクール創設しました。
〔フィリップ・ブランシュワイグ氏の略歴〕
1928年、スイスに生まれる。
1949年、連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ/EPFZ)で物理学専攻していたときロシアバレエ団(バレエリュス)の創設者セルゲイ・ディアギレフに感銘し憧れ、ダンスを始める。
1950年、カンヌのダンス学校のサマースクールで後に妻となるエルビールさんに出会う。
フランスの振り付け家モーリス・ベジャールや仏カンヌ・ロゼラ・ハイタワー・バレエ学校の創設者ロゼライフ・ハイタワーと親交があり、ブランシュワイグ氏は興行師としてベジャールの公演を実現。
ブランシュワイグ氏は家業の腕時計部品製造業を継ぎ、最高経営責任者 ( CEO )として企業運営に専念。
1956年から仕事で毎年訪れた日本には特別の思い入れがある。当時、日本では外国から来るオーケストラなどには十分なお金を使うが、日本国内で西欧文化にかかわるダンサーなどへの援助はほとんどなかった。「この国の若いダンサーを助けなくては」とブランシュワイグ氏は思った。
1969年、妻となったエルビールさんと「舞踊振興財団」を創設。ローザンヌ国際バレエコンクールの構想が始まり、モーリス・ベジャール氏も協力する。
1970年、ブランシュワイグ氏は、バレエの世界ではダンサーが他の芸術家に比べて経済的に不利な立場に立たされている。ダンサーを支援したいと考える。
1972年、ベジャールとハイタワーに相談し、若手ダンサーに世界的に知名度のあるバレエ学校で学ぶ権利を賞として授与するコンクールをローザンヌで創設することを決意する。
1973年、第1回ローザンヌ国際バレエコンクール開催。
1986年、腕時計部品メーカーを売却。ローザンヌ国際バレエコンクールに専念する。
1998年、25年間務めたコンクールの会長を辞任。「歳を取れば取るほど賢明になるというのは神話だ。もっと長く居座ったらコンクールをダメにしてしまうと思った」と語る。
2007年 妻エルビール死去。
2010年、がんのためスイス、ヴヴェイで死去、81歳。大の親日家で病床で浴衣姿のまま息を引き取ったと言う。
理念
ブランシュワイグ夫妻は創設当初から、次のような基本は決して崩しませんでした。
・審査委員には、必ず世界のバレエ界のトップだけを呼ぶ。
・審査基準は明確で、透明性が高くごまかしがないこと。
・コンクール後には必ず反省会を開き次回に生かすこと。
これは現在の後継者にも受け継がれていて、特に、反省会を開き改革を続けていくことは、すべての基本だとブランシュワイグ氏は考えました。これは、1000人の従業員を抱える腕時計部品製造業の最高経営責任者 ( CEO ) としてのマネージメント哲学からきています。さらに、経費は必ずスポンサーからのお金を使い、自分のお金はパーティー代など以外は一切出しません。「出すと、コンクールを私物化しダメにしてしまう」という信念を持つ。
目的
- 15~18歳の若いダンサーを対象。現在カンパニーとプロとして契約中、または過去にプロ契約を結んだことのあるダンサーは参加できない。
- 入賞者は、奨学金を受け取り希望するバレエ学校かバレエ団で1年間研修できる。
- 参加者にクラスを受講させ、それ自体も審査対象としている。審査では「プロのバレエダンサーとして成功する能力があるか」に重きが置かれている。
- 賞を授与するだけのコンクールとならないように様々な工夫がなされてきた。
各段階で落選した参加者にもアドバイスが行われ、入賞に至らなかった参加者に対しては、提携バレエ学校およびバレエ団と留学の相談ができる機会が設けられている。
「良いダンサーを育てる」という理念に基づいた運営が行われ、才能豊かな若いダンサーがプロの道に踏み出すことへのサポートを目的としています。
ローザンヌと歴史
1973年、第一回はローザンヌ市立劇場にて開催。参加者は15〜19歳、欧米8カ国の学生50人のみ参加。地元ローザンヌの教師3人が審査員を務めた。入賞者の受け入れ先は、仏カンヌ・ロゼラ・ハイタワー・バレエ学校、英ロイヤル・バレエ学校、モーリス・ベジャールのムドラ・バレエ学校3校のみだった。
1975年、第三回はローザンヌのボーリュ劇場にて開催される。提携校も次第に増やされていった。
1985年、ニューヨークで決選が開催される。
1989年、東京で決選が開催される。その際、日本人が審査員になり、日本放送協会(NHK)でファイナルが放送するされるようになって日本からの応募、参加者が増えた。
1995年、モスクワで決選が開催される。
1999年、コンテンポラリーが導入。カンパニーの研修生となる道が開かれる。
2006年、映像による事前審査が設けられ、参加者のレベルが向上。そして、決選のフリーヴァリエーション廃止という変更が行われた(決選はクラシックとコンテンポラリーをそれぞれ選択肢の中から選び踊る形になった)。国の経済力によっての参加者数の不均等を修正すること、指導者による振付の優劣にかかわらずダンサーとしての才能を見極めるためというのが理由であるようだ。
2020年、第48回はボーリュ劇場の改修工事のためモントルーのストラヴィンスキー・ディトリアムにて開催。
2021年、第49回は新型コロナウィルス感染症による渡航制限のため、参加者が事前に提出した映像をローザンヌ現地で審査員が審査する方式で行われた。